World Traveling Udon Maker's blog 世界を旅するうどん屋のブログ

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素敵人間発掘&絆作り効用論(漫談風)前編

今日書きたいのは、タイトルの通りである。私のここ数年の最大のテーマであり、現在旅するうどん屋として、27歳という割に掛け替えのない時間をうどん作りに注ぐ最大の理由でもある。とはいえ、いざ書こうとすると、これまでの思考の蓄積を論理立てようと、脳内ではあらゆる思考が蠢き、結局何から書き出したら良いのか、分かりやすいのか、か考え始めてしまう。そんなことをしていると結局筆は動かずじまいという、無形遺産ならぬ無形思考となり、そんな時間を費やしている暇はないのでなんとか遠回りしながら進める。

 

漫談をする人というのは、きっとこう言う気持ちなのだろう。テーマは決まっているのだが、より自然にその議題に突入するためには、その時の状況に応じた「枕」が必要なのかもしれない。というか、それはつまりその時の「気分」とか「たまたま思ったこと」なのだろう。なので私も、脳が赴くままに、流れるように書き進めて見る。

 

因みに、今回の執筆の制限時間は1時間である。16:48にスタートしたわけだから、17:48にはジ・エンドである。ジ・エンドした場合は、いつしか後半を書くことにする。制限時間を設けないと、怠惰な私は思考の文章化を放り出し、ユーチューブへGOする。そんなことをしている場合ではないのだ。

 

そういえば、私は現在(2017/8/23)乗馬指導をしてくださる方を絶賛募集中である。大学生の頃、乗馬スキルを養いたく、バイトでふれあい動物広場で働いていた私はポニーの飼育や管理の仕事をし、昼休みには乗馬指導をしてもらっていた。仕事としてちゃっかり乗馬スキルを磨こうなんて、当時の私はよく考えたものである。金なしの悪知恵である。どなたか、乗馬を教えてくださる方がいればご連絡ください。私はうどんを無料提供しますし、必要あらばお金も支払います。なんだかんだで、結局今も似たように、うどんでどうにか出来ないか、と悪知恵を働かせているわけである。

 

なぜこのような募り方をしているかというと、結局のところ、金銭を介す事で、単なる指導者と生徒、という構図にハマりたくないのだと思う。金銭を払えば私はすぐにでも乗馬の指導を受けることができる。手っ取り早い。なぜそれが可能かと言うと、金銭が介在しており、数字という互いにとって明確な線引きがされ、フェアであり、合意しやすいからである。確かに便利なのだが、敢えて大きく踏み込むと、オンリーワンな温もりと愛が失われる。つまり、そこに金銭が介在していなければ、まだ見ぬ乗馬指導者の乗馬スキルと私のうどんスキルの交換という形で、私達はもう少し豊かな関係が築けたかもしれない。出会いをもっと心から喜べたかもしれない。技術の交換する瞬間を、純粋に楽しめたかもしれない。無論、一概にはいえないのだが。

 

上記のような形態に捉われず、私はもっと純粋に、私の思考と同じベクトルを向いた人と、その瞬間を楽しんでいたい。その瞬間を互いが楽しむことができれば、ポジティブな波動が生まれる。その波動は今後の私とその人との関係を末長く繋ぐかもしれない。または、その刹那的喜びで終わってしまうことかもしれない。それは未来のことなので、期待することなく、流れに任せれば良い事だと思う。要はその瞬間が楽しい、という心のときめきを絶えず繰り返すのが大事だ。

 

ある時、仮に80歳で私の人生が終わるとした時、今からの50数年間、何をして生きていれば良いのだろうと悩み苦しんだことがあった。圧倒的時間的空白である。それを目前に、毎日死にたい・・と一人で呟いていたことは今でもよく思い出す。オーストラリアの常夏である。じりじりと照りつける太陽が、より気分を害した。今後AIの発達により、人間の仕事が奪われるとはよく議論の的となる事柄だが、本当にそうなった時、仕事をする必要がなくなり毎日寝てても良い、家族や友達と遊んでても良い、という状態が続いたら、人々が感じるのは喜びではなく、絶望だと思う。圧倒的時間的空白の前に絶望である。何をしたらいいのやら、人々は困惑するだろう。一概にはいえないのだが。私が感じていたのはそういう類のものであると思う。結局のところ、仕事でもなんでも良いのだが、人々はなんだかんだいっても今ある「役割・肩書き」に助けられているのである。毎日to doがあるのは良い事であり、ある種心の安定に不可欠である。

 

つまり残りの50年間、どこで、誰と、何して過ごしたいか、という壮大なテーマである。こういうことを言うと、ある人が「お金に困ったことがないからそんなことが言える」と言ってくるだろう。確かに私は「お金に困ったことがない」のである。中流階級の家庭に生まれ、平凡な暮らしだが飯を食うに困ったことはない。幸運なことに、大学まで行かせていただいている。大変に、幸運なことだと思う。「お金に困っている人」の気持ちは想像することしかできず、真には理解できない。だからなのか、大金を儲けたいという欲求を持ったことは一度もなく、ただ平和に、心安らかに健やかに、豊かに暮らしたいということだけを願っている。補足だが、私の日々の生活は慎ましく、ギャンブルはもってのほか、大した物欲は無く、ステータス欲も無く。そんな私だからこそ、このテーマと対峙した時に出てきた解は(解というか自明)、「色々なところいって、素敵な人たちと、楽しく過ごしたいな~」という如何にも平成生まれのゆとり世代といったものである。結果として今の私の時間の大部分を捧げている、旅するうどん屋の活動が生まれたのである。

 

とはいえ、ここで「素敵な人」と出てくるのは割に我ながら凄いことなのかもしれない。私は人が好きなのだが、ある人が「人が好きって言えるってすごいね~」と私に言ったことがある。結構、自信を持って人は好きである。人との出会いや、人の深みに触れた時、その時間に充実感を感じるし、その瞬間が私の人生のベクトルを今の在り方にアジャストしてきた。残っている記憶もあるが、具体的にどのような出会いだったのか忘れてしまった記憶もある。ただ、その時の出会いが今の私が在るところに方向付けた、という感触は今でも残る。(17:48。時間的ジ・エンド。後半へ続く・・・)